Pumpui's Diary

タイに約18年住んだ男のつぶやき

【Book Review】 『スリーパー 浸透工作員 警視庁公安部外事二課』(竹内明)

警視庁公安部外事2課(ソトニ)を追われた元エース筒見慶太朗を主人公とした国際諜報小説。『スリーパー』はシリーズ3作目。今度の相手は北朝鮮の秘密工作員だ。

「背乗り」(はいのり)とは、工作員など他国人が現地人になりすますために身分・戸籍を乗っ取る行為を指す警察用語である。背乗りして日本に潜む北朝鮮工作員と元公安のエース筒見慶太朗の壮絶な戦いが、フィクションを超えたリアル感で描かれている。諜報戦の最前線で戦う倉本や筒見の抱えきれないほどの家族愛、対立する国家に引き裂かれた工作員の思い……。インテリジェンス小説らしく、だれが敵でだれが味方なのか、最後まで読まないとわからない。北朝鮮工作員がこれほど侵入しているとしたら、本当に恐ろしい。緻密に書かれた公安の捜査手法は、精密に公安警察を取材した作者にしか書けまい。

日朝諜報戦の深層が、この一冊に濃縮されている。

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ラダック旅行記 Part 5 Tsu Moriri(3)

朝起きて部屋を出る。やはり高地だ、突き刺さるような寒気が肌を襲う。外に出ると、女主が水汲みから帰ってきたところだった。水を背負いながら、これから朝食作るから待っててね、という。この寒さで、朝一の仕事が水汲みとはやはり生活は厳しい。パンと卵の朝食をいただきKorzokをあとにする。

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昨日は湖をほとんど見ていないので、Lehへ帰る前に昨日行ったスポットへ行くことにした。Korzokを離れるとすぐに羊の集団に遭遇。前に進めない……

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バイクの大集団はKorzokの外れにあるキャンプサイトに泊まっていた模様。Korzokだけではなく、ラダックでは多くの観光地にこのようなキャンプサイトがある。値段はピンキリらしい。ひとりだからHome Stayのほうが気楽だ。

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前日と同じスポットに到着。風はあるものの前日と比べて穏やか。写真を撮影。湖の岸辺にはみずみずしい湿原が広がっており、シーズンにはさまざまな野生の鳥が生息しているそうだ。しかし、少し時期が早いのか、鳥の姿を見ることはできなかった。水の色が昨日とは異なる気がする。

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車は昨日通った道を引き返す。途中Nomadoのお宅をお邪魔させていただく。以前は完全な遊牧民だったようだが、最近は移動の際は車を利用していることが多いらしく、ひとつのグループにつき1台くらいは何かしらの車を所有しているように見えた。石で津柵を作り羊を飼っている。Nomado宅でのんびりしていると、Korzokにいたバイクの大集団が走り去っていった。どうやら100台以上あった様子。この大自然を走ると気持ちよさそうだ。f:id:pumpuikun:20171022194011j:plain

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昼食休憩したSomdoを通過。昨日同様ガスっているが、運転に影響を与えるほどではない。Sumdoを通り抜け、昨日来た方向とは逆、西へ向かう。しばらくすると道が悪くなり、さらに急な上りが始まった。車が止まれるような道が続く。ついに先ほど追い抜かれたバイクの大集団に追いつく。バイクの何台かは登り切れず、スタックしてしまっていた。道が塞がれ、我が車も止まってしまうことがあったがなんとか脱出。再びNomadoに遭遇すると、運転手がNomadoのおばさんとなにやら交渉を始める。前日に渡したチップを見せながら、ちょっと待っててと交渉に夢中。どうやら黒い羊の皮を買おうとしているらしい。先に寄ったNomadoとも交渉していたけど、金額が合わなかったので買わなかったようだ。あとで知ったのだが、この皮はザンスカールの伝統衣装に使うそうだ。ザンスカール出身のドライバーがほしがった理由もわかる。交渉の間、Nomadoの子供たちに飴を渡すと、袋を取らずに口に放り込んでしまった。子供たちもすぐに気がつくが、文明とかけ離れた生活をしていることが窺い知れる。さすがにタイで山の村に行っても、いまどきこれはないと思う。f:id:pumpuikun:20171022193939j:plain

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しばらくして左に湖らしきものがかすかに見えるようになってきた。Tso Karという湖だが水量が少ない。本当は道路の近くまで広がって大きいはずだが、今は水量が少ないらしい。ドライバーが野生の鳥の存在を教えてくれるが、私の目には見えないことも多かった。Nubraでもそうだったが、彼らの視力はとてつもなくいいようだ。Thukjeという村に入る手前に小さな茶店があったので休憩を取る。Tsu Moririのコースで2泊3日する場合、KorzokとThukjeか近くのキャンプサイトに泊まることが多いそうだが、ここで一日を費やすのはどうだろうか。昨日のチップが利いているのか、ドライバーがお茶代を払ってくれた。

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Thukjeに寄りGompaを見に行く。実は車にカメラを忘れたため、ここの写真はない。狭い洞窟の奥にきれいな仏像が祀られている。どのように運び入れたのか謎である。デブの私は手の届く距離までたどり着けなかったが、一見の価値がある。案内してくれた僧も自信満々の笑みである。

その後、道はよくなっているが再び上りが続く。マナリからの道と合流。このときはまだマナリとこの合流点の間の道が開通していないため、走っている車はほとんどなかった。シーズンになると観光客の車で混雑しそうな道だ。そうした旅行者目当てのレストランも多い。Nobraと同様、崖から落ちたら助からないような細い道をひた進み、Taglang Laという5300mの峠を越える。峠を越えると下りに入り、スムーズに走っていく。Upshiまでの間、Rumtse、Gya、Miruといった集落を通過。これらの集落にもGompaがあるようだが、このときはそのことを知らず。f:id:pumpuikun:20171022195435j:plainf:id:pumpuikun:20171022195439j:plain

Taglang Laを越えると道も単調で少し眠くなりうとうとしてしまった。Upshiで小休憩を取り、そのままLehへ。ドライバーにいえば道中ほかのGompaにも寄ってくれただろうが、実はLeh郊外にあるNamgyal Tsemo Gompaに行きたかったのでそちらを優先した。Leh市内から歩いて行くのも可能だが、高度のあるところであまり歩きたくないし、車をチャーターしているのだからと利用させていただく。ここはGompaというよりLeh市内を一望できるスポットとして行ってみたかった。Leh市内の渋滞を通り抜け、Namgyal Tsemo Gompaに到着。Gompaは閉まる直前だが、ぎりぎりで中に入ることができた。Leh市内を一望できるスポットでぼーっと過ごしたあと、宿に戻った。

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ラダック旅行記 Part 5 Tsu Moriri(2)

朝起きると、体の調子がいい。寝ることによってだいぶ回復したようだ。

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Nyomaを出発し、さらに東へ進む。Lomaという村までは外国人が入れると聞いていたからだ。そのギリギリまで行ってみたいと思っていた。Nyomaを出るとすぐに軍の駐屯地があった。ドライバーによれば、道路の左側が駐屯地、右側は軍に出入りしている作業員の住むキャンプだという。道中道路工事をしているところが多い。「Home Stay先にインド人がいただろ?彼らは電気のエンジニアで、この辺の道路で作業しているはずだよ」という。昨夜部屋で見たインド人の素性がわかった。車はなにもない平原をひたすら走る。こんなところに人が住めるのか……と思う風景が続く。相変わらず野生動物や放牧している遊牧民の様子がなんども見られる。地図によると、この道は一本道でLomaまで村らしい表示はない。だが、途中、大きな二又があり、石に「Thin」と書かれている表示があった。その方向を見ると集落らしきものがかすかに見えた。Lomaまでしか入れないのは中国ともめているため、外国人には様子を見られたくためだと思っているが、そうしたこともあってインドの地図はあえて載せていない道路や村が多いと聞く。どうやらここにもそういうところがあるようだ。

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Lomaの手前だというところで橋があり、その手前で検問があった。車を降り、行先の記された看板の写真を撮ろうとした瞬間、笛を吹かれ、軍人が歩み寄ってきた。インドでは橋や駅などの写真を撮るのがかなり厳しい。ドライバーが書類をもってこの先に行けるように交渉したが、外国人はこの先に入ることができないという。ドライバーが私のもとに戻る前に少し地位の高そうな軍人がやってきて、この先は外国人に許可されていない、戻ってTsuMoririに行きなさいといわれる。あとで地図をよく見ると、Lomaの村はこの橋を渡ったところに位置しているようだ。なお、インド人は問題なくこのエリアに入れるため、Pangong TsoからLomaを経由してTsu Moririに行くルートで旅行している人も多い。Nyomaはそうしたインド人が休憩する宿場町のような存在だそうだ。

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引き返してTsu Moririに向かう。Lomaに入れないのであれば、先ほど見たThinという村に寄ってみたいとドライバーに告げる。地図にないので、外国人に許可されていないのかもしれないと思ったが、ドライバーは問題ないというので、寄ってもらうことにした。村に入りGompaへ向かう。NyomaのGompa同様、ここも修復中だ。Nyomaと違うのは村人が大勢集まって手作業で行っていることだった。農作業よりこちらのほうが収入になるのかもしれない。誘われるがままにバター茶を飲んでいると、ひとりだけ残っているという僧がやってきて簡単に案内してもらう。

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ThinをあとにしてTsu Moririに向かう。昨夜泊ったNyomaを通過、Tsu Moririとの分岐になるMaheという村でGompaを訪問する。きれいな大きなGopmaだが、僧は2、3人しかいないようだ。Tsu Moririへ向かう道に入る手前の橋で検問があった。パーミッションを見せて問題なく通過する。しばらくするとSumdoというところでホテルを兼ねたレストランがあり、ランチ休憩。メギーを食す。ここではインド人のグループも多数食事休憩をとっていた。

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食事のあとしばらく走ると、ところどころでノマドの住居が見られるようになる。「まあいくつもあるから、気が向いたら声をかけてくれ、寄っていくから」とドライバー。途中4800mの峠を越えると湖らしきものがかすかに見えてきた。Kiagar Tsoという湖だそうだ。道中ガスがかかり始め、気温も下がってきたようだ。ところどころ小雪が舞っている。車から降りる気になれない。車はそのまま進む。

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宿泊先のKorzokに到着したのは15時近かった。村の入り口で軍のチェックポストがあった。そのチェックポストではバイクの大集団が手続きを待っており、その数は100台を超えそうだった。手続きを終えて村の中に入るとドライバーがこの日の宿泊先を探す。この村、Home Stayや宿の看板は出ているのだが、なぜか人気がない。観光シーズンには少し早いのか、旅行者も先ほどのバイクの集団以外ほとんど見かけない。いくつかきれいそうな宿を見に行くが、管理人がいないところばかり。結局、近くにいた女性に尋ねるとうちに来る?といわれそこに泊まることにした。偶然にもLonely Planetに出ているHome stay先だった。

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荷物を置くとドライバーに「この先、湖の畔に景色のいいところがあるので行こう」と誘われる。2,3㎞走ったそのポイントで車を降り写真を撮ろうと思ったが、あまりの風の強さにとても立っていられなかった。数枚撮ったところで村に引き上げた。引き上げると風も止み、Gompaへ行ったがだれもおらず。丘の上の仏像が立っているところへ行く。Gompaへ戻るとひとりの僧がいたので内部を見学。しばらくして、僧はお祈りを始めたので、静かにGompaをあとにした。このKorzok Gompaではチベット歴の6月3,4日(太陽暦では7,8月頃)にコルゾク・グストルというチャムの祭りが催される。

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Korzokは高度4500m。昨夜の苦しみで高度順応できたのか、この日のほうが元気だった。昨日の状態では丘の上に登ろうとなど決して思うことはなかったろう。だが断続的に風が吹き、体温が失われていくような感覚だった。行くところもないので、茶店のようなところでチャイを飲むと、Home Stay先に戻って部屋でくつろいで夕食の時間を待つ。すると女主にあてがわれた部屋ではなくこっちの部屋に来るようにいわれた。食事の準備をしつつ、ストーブを点けてくれた。この日の夕食は特に変わったものじゃなかったが、ラダック/ザンスカールチャパティがいちばん美味しく感じられた。

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ラダック旅行記 Part 5 Tsu Moriri(1)

Nubraから戻り、1日だけどこも行かない日を作った。さすがに移動続きで疲れがたまってきたからだ。

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ラダックで湖を見ようと思っていた。Pangong TsoとTsu Moririのふたつが候補に挙がりどちらに行くか迷っていたが、旅行代理店に相談するとPangong Tsoは映画で取り上げられてインド人の間で一大ブームとなっており、人が少ないところを好むのであれば、Tsu Moririのほうが望ましいとのことだった。ただ、このルートはこれまでのエリアと比べて高度の高いところに滞在する時間が長くなる。ラダックに入って1週間が経過しており、だいぶ順応しているような気がしてきたのでTsu Moririにも2泊3日で行くことに決めた。

早朝にLehを出発。途中Thikseというゴンパに寄った。観光客向けではあるが、朝のお祈りを見ることができると聞いていたからだった。だが、この朝は近所で葬式があったとのころで僧はみなそちらに行ってしまい、ひとりの僧が行っているだけだった。

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Thikseをあとにして、車は南東に向かう。平坦な道が続き、道路沿いには軍の駐屯地が広がっていた。Upshiという宿場町のようなところで休憩。二又に分かれており、今日はこのまま真っすぐ行き、Nyomaという村に宿泊し、帰りはもうひとつの道から戻ってくる予定、とドライバーの説明。パーミッションの手続きでドライバーはどこかへ行ってしまった。

Upshiからしばらくすると、崖に大きな仏画が描かれているところがあった。なぜこんなところに……道路は工事中のところもあるが、このルートはこれまでと比べてコンディションが悪い。この道を走っているとき少し気持ち悪くなり始めていた。このときはこの揺れが原因かと思ったが、あとから思うと高度が上がっていたことが原因かもしれない。そのため景色の記憶があまり残っていない。

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Chumathangという村で休憩。ここは温泉が湧いているということで、休憩を兼ねて温泉を見に行く。代理店の方から「あまり期待しないでください」といわれていたが、その通りだった。それでもインド人の家族は喜んでいたが……

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今回の2泊3日も宿泊はHome Stayの予定。Lehを離れると食事に期待できないので、とにかくなにか食べておきたかった。レストランに行くとモモが食べられるというので、一皿注文。Chumathangはすでに高度4000mを超えている。Nubraは5000mを超えているところを通過したが、やはり短い時間だったのだろう。高度順応ができていないようで、食べることは食べられたが、やはり調子がよくない。

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食事を終え、Nyomaに向けて出発。この辺りから野生動物が頻繁に見られるようになる。最初のうちは喜んで写真を撮っていたが、そのうち普通に見られるようになり飽きてきて、いつのまにか寝てしまった。「Nyomaだぞーと」運転手に起こされ、さてどうすると?と聞かれる。ホテルはないからHome Stayね、ということだったが、この村、あまり旅行者が来ないし、インド人もドライブインのようなところで通過するだけで宿泊する人は多くないようだ(ドライブインのような茶店でドライバーがインド人と話していた)。ドライバーも当てがないようだ。村人に聞いて尋ねるも、なぜか断られるケースが数回続いた。子供を連れた女性に尋ねたところ、ないんだったらうちに来る?とでもいわれたのか、ふたりを車に乗せてこの女性宅に向かった。あとで知ったのだが、このときこの家ではインド人がふたりHome Stayしていたので、彼女は少し躊躇したらしい。Home Stayの金額もこれまでのところと比べて半額以下の提示。恐らくインド人はその額で泊まっているのだろう。さすがにそれは申し訳ないと上乗せして払ったけど、やはり旅行者の少ないところは人がすれていない。

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体調が万全であれば、歩いて村を周りたかったが、とてもそんな気力はなかった。車で村を周りながらゴンパへ行く。しかしゴンパに人の気配は感じられなかった。ドライバーが声をかけると、僧には見えない男性が現れた。このゴンパは現在修復中で、彼らは絵師で修復のために来ているという。

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ラダックやザンスカール全体にいえることだが、村といっても家と家の間は広く離れており、歩くとかなり広く感じる。Home Stay先からゴンパのさらに奥へ行くと集落が見えた。一応同じNyomaということだ。ここではご婦人たちがなにかを縫っていた。ご婦人たちと談笑していると、遠くから子供の声が聞こえてきた。まだ歩くのがやっとな小さな子供が大きな声で私に声をかけている。息が苦しいが子供のところまで行き、ご婦人と同様に飴を渡す。

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もう見るものもないとのでHome Stay先に戻り、横になる。Nyomaの高度は4200m。やはり高山病の症状で頭が痛く、息苦しかった。なにもできず横になって過ごす。夕食を持ってこられたもほとんど食べられず。電気が夜遅くなって通り始めた。ノックが聞こえたので、ドアを開けるとインド人が部屋に入り「この部屋しか充電できないんだ」といって、スマホを充電していった。私はほとんど意識がなく、この家の住人だろうと深く考えなかったが、この家の女性と明らかに雰囲気が違っていた。だがそんなことは翌朝まで考えるゆとりもなく、いつのまにか気を失ったように寝てしまっていた。

拘束時間が長すぎる

現地採用時代、拘束時間だけはやたら長いと思うようなことがしばしばあった。

ある会社に勤めていたときの話。当時の仕事は、タイ人作業員の補助や日本から来た方のサポートだった。作業そのものは私がするわけではない(やることもあったけど)が、作業者と一緒にいる時間は同じなので、拘束時間は彼らと同じかそれ以上だ。

あるときのこと。タイに工場があるK社がラインを新設する際、H社にそれを請け負わせた。H社は複数の取引先に仕事を振り分け、私の在籍していたF社もそのひとつだった。ただ異なっていたのは、F社はH社経由でなくK社から直接仕事を請け負っていたことだった。だが、進捗管理H社が請け負っており、全体の作業を考慮すると、F社のみで作業を進めることは困難なため、実質H社の指示のもと作業を行わざるを得なかった。

H社から〇日から現場に入ってください、という連絡があり、それに備えて日本からの出張者の受け入れやタイ人ワーカーの手配を行った。いざ当日現場に行くと、まだF社さんの工程まで進んでいないんですよ、ということが日常茶飯事。さすがに1週間先ということはなかったが、23日は何も作業できない、けれど現場に居てほしいということで、詰め所に1日中居続けることもあった。タイ人には「仕事がないなら帰らせろ!」といわれ(もちろん日当は払う)、出張者には文句を言われ散々であった。

F社勤務のときのこと。この当時、取引先に行くときは、運転手付きの車で訪問をする立場であった。ある日のこと。バンコクから車で2時間ちょっと離れたC社の工場で作業を行っていた。作業をしていると、会社から連絡があった。C社に納入している製品に不具合が発生したという。そのため、その製品をF社で修理する必要があるので、一緒に来ているタイ人スタッフに持ち帰らせるようにアレンジしてくれとのことだった。私の作業もまだ終わっていないので、私は一緒に帰るわけにもいかない。そういうと修理が終わったら運転手に運ばせるから、それまで取引先の工場で待っていてくれという。このとき13時過ぎだった。この製品を担当しているタイ人と一緒に来ていたので、彼は運転手と一緒に帰り、私はひとり工場に残された。自分の作業は時間を稼いでも、15時には終わってしまった。部外者は用事がなければ工場の現場に居続けるわけにはいかない。外に行こうにも車もない(この工場は工業団地にあり、工場以外なにもない。もちろんタクシーなどない)。幸いこの工場にはキャンティーンがあり、事情を説明して待たせてもらうことにした。当時は今のようにスマホがあるわけでもなく、まさかこんなことになるとは思ってもいなかったので本とか時間を潰すようなものはなにも持っていなかった。会社のロゴ入り作業服を着ているので、寝て待つわけにもいかない。会社に電話しても、車がないから待っててくれとしか言われない。ひたすらキャンティーンで待つだけだった。結局、修理された製品がC社に戻ってきたのは25時過ぎ。現場で動作確認を終えて出発したのが27時。タイ人のスタッフを送り、バンコクの部屋に戻ったのは30時。その後、8時にいつも通り出社した。

その後、このときのことで不満をあげたが、申し訳なかったとのひとこともなく、なにもしていないという理由で手当ても却下され、のちに退職する要因のひとつとなったのである。

密入国してしまった

Cさんと会うとどうしても思い出してしまうのがTさん。ネパールを密出国しインドに密入国して数日過ごしたのだった。

バラナシにあるクミコハウスでうだうだしていたある日の夕方、Cさんが数人の日本人と一緒にクミコハウスにやってきた。Tさんはそのうちのひとり。ネパール/インドの国境からバスでバラナシに入ってきたという。私と同じルートだった。Tさんとはカトマンズで少し話をしたことがあり、再会に驚いた。しかしCさんから話を聞くと、さらに驚いてしまった。

ネパール/インドの国境で、Tさんは両国のイミグレがわからず、出国スタンプも入国スタンプも押されないまま、バラナシ行きのバスに乗ってしまい、スタンプを押されていないことを口に出せず、そのままバラナシまで来てしまったというのだ。現在のこの国境の様子はわからないが、当時はそういうことが可能だった。実際、両国人はパスポートなしで行き来している。

私自身、陸路での出入国というのはこのときが初めてで、どこがイミグレでどこがカスタムなのか看板もなくよくわからず、インド側から来た白人に尋ねながら通過した記憶がある。その後、タイとラオス、マレーシア、ミャンマーの陸路国境を通過すると、きちんとしているところばかりで、正攻法に行けば知らないまま出入国しているということはありえない、ということを知った。バスに乗った時点で、なんかおかしいと思わないのか!?とクミコにいた日本人に突っ込まれていたけれど、Tさんも初めての海外旅行、テンパってしまったのだろう、ということにしておく。

仮にTさんが捕まった場合、国外退去や刑務所などに入っていてもおかしくない。高野秀行さんはミャンマーからインドに密入国して、カルカッタで出頭したものの国外退去となり、いまだにインドのビザは下りないでいる。

なお、Tさんは同じルートをやはりイミグレを無視して通過し、無事ネパールに戻ることができた。その後、カオサンでTさんと再会し、本人から確認したので間違いない。

先日、Cさんと会ったときこの話をしたら彼も覚えており「ある意味、古き良き時代でしたよねえ」ということで一致した。

インターネットでつながっていない友人たち

タイに住み始めてから、日本に住む当時の友人たちとはメールで連絡を取り合っていた。だが、3人ほどはなぜかメールではなく、年に一度の年賀状でのみ、やり取りをしていた。この3人のことを書いてみたくなった。

Aさん。

新卒で入社した会社にいたバイトの方。配属先はかなり変わった部署で、社員よりバイトが多く、さらにバイトの多くが、正社員にならず資格試験の勉強をしながら働いていた。なぜか学歴も社員より高い人が多く、社内でネタになることも珍しくなかった。彼もそのひとりだった。色々と仕事を教えていただいたものだったが、私が異動し彼も新潟に帰ることになり、会う機会がなくなった。タイに住み始めてそのお知らせを送ると、年賀状でのやり取りが始まった。一度私の一時帰国時に上京のタイミングと合うからと時間を作ってくれた。その後、私が完全に道を失っているときに、声をかけてくれて、新潟で温泉にでも入ろうと誘ってくれた。彼も目指していた資格を諦め、その後のことをいろいろと迷っていた時期だった。温泉旅館で男二人、いろいろと語ったものだった。結局彼と会ったのはそれが最後となった。

数年後、メールで訃報が届いた。彼の妹さんが、彼の携帯に登録されているアドレスに連絡してくれたのだった。その年の年賀状で「入退院を繰り返しています」と書いてあったので気になっていたのだけど、まさかそこまで悪かったとは……会いたい人には会えるときに会っておくべきだと、彼のことを思い出すたびに思うようになった。

Bさん

大学の先輩。だが、卒業したのは私のほうが先という不思議な関係。私より1年あとに卒業し、石川県に就職。互いに遊びに行くといいつつ、機会ができず。私が夏休みに旅行から帰ると、留守番電話(当時はメールで連絡を取るという習慣はない)に「協力隊、合格しました!」というメッセージが録音されていた。在学中からなんども受けていたが、なかなか試験に合格できないという話は聞いていた。その後、赴任する前に一度遊びに来て一晩を過ごしていった。彼を部屋に残し私は出社した。帰宅すると「このCD、カセットに録音してニカラグア(彼の赴任先)に送って」と10数枚のCDの上にメッセージを残して去っていった。

彼の帰任と私のタイ移住が微妙に重なり、その後、現在まで会っていない。ただ、年賀状のやり取りだけは続いている。数年ほど届かなかった年があったが、体調を壊していたと、年賀状に書かれていた。彼は年賀状に携帯電話もメールアドレスも記載していない。彼の性格を考えると、携帯やパソコンを持たずにいても不思議ではない。さて、いつか再会できる日が来るのだろうか?

Cさん

学生時代インドで会った方。実はインドで別れて以来、会うことはなかった。だが、タイに住み始めてからも年賀状でのやり取りは続いており、なんとなくの近況はお互いにわかっていた。やり取りを始めて数年後、年賀状にメールアドレスが記載されていたことがあったが、彼とはメールではなく、はがきでのやり取りのほうがふさわしい気持ちがあって、連絡を取ることはなかった。ただ、私の文章がある本に掲載された時だけは早く伝えたくメールを送った。返信はなかった。しばらくして返信があり、メールとかはあまり見ない性格なので返信が遅れて申し訳ないと書かれていた。

実は先日Cさんとついに会うことができた。そのときの話は置いといて、SNSをされているのなら交換しませんか、と申し出たところ、やはりあまり好きではないので、この類のものはやっていないとのことだった。会話からそういうものと縁のなさそうな生活を送っていることが窺えたので、納得した。これからも年賀状でのやり取りが続くことだろう。

 

Cさんと会って、いろいろと思うことがあって書いてみた。同じテーマを以前のブログでも書いたと思うけど、今の心境とは違うと思う。