Pumpui's Diary

タイに約18年住んだ男のつぶやき

花粉が飛び始めた?

花粉症歴40数年である。

タイにいたころは花粉症から解放され、この点だけはタイの方が圧倒的に過ごしやすかったのだが、本帰国して頭を抱えているのが花粉症。昨年はクリーンルームでの仕事が長く不幸中の幸いだったが、それでも症状に苦しんだ。症状が軽いころは薬でだいぶ和らいだのだが、後半は全く効かなくなり苦しんだ。飛び始める前から薬を飲んでおくといいと聞き、今年は先月末からある薬を飲み続けている。

報道によると、どうやら花粉が本格的に飛び始めたらしい。今日は外を歩く時間が短く、それほど花粉を浴びた気がしなかったが、1日家にいた家人は窓をしばらく開けただけで花粉を感じたという。明日からまた外にいる時間が長くなる。先月から飲み続けている薬の効果は出るのだろうか?

タイ人とアポを取るということ

SNSでタイ人とアポを取るときの難しさのようなものを読み、思い出した話。

駐在員でもある上司が交代し、新しいことを始めようとしたときのことだった。取引先の見直しをしたいからと、いくつかの会社にアポを取ることを命じられた。ある会社は「日本人と直接話せるように」という条件が付けられた。この取引先、取引がほとんどなく、私も実態を知らないところだった。上司としては、同業他社の対応がイマイチなので、日本人と交渉できればシェアを切り替えたい(前任者を否定し、自分の実績にしたかったのではとにらんでいるが)ようだった。

当初上司が希望した日時をそのまま伝えると、タイ人スタッフから「その日は日本人がいないので、別の日にしてほしいとのことです」と言われ、いくつかの日時を提案されたなかから、アポイントを取った。

アポイント当日、取引先に着いて面会のアポイントを告げると応接室に通された。しばらくして、幹部らしいタイ人が数名部屋に入ってきた。彼らは英語があまり得意ではないらしい。上司は英語はできるがタイ語は全く話せない。最初は私がタイ語であいさつを兼ねて訪問の理由などを話しているが、自分で話したい上司はいらいらしてきた。

「こちらに日本人がいると聞いて、今日は伺ったのですが・・・」

「え?うちに日本人はいませんよ」

上司はそれを聞くと、訪問の意味がないといって、すぐに打ち合わせを切り上げた。帰りに車で

「いったいどうなっているんだ!日本人がいるからわざわざ1時間もかけて来たのだろうが!ちゃんと相手の名前を確認したのか!」

と私にキレられた。

オフィスに着き、アポイントを頼んだタイ人にその旨を伝えると

「え~今日なら日本人がいるって言っていましたよ」というばかり。

タイで仕事をするということは、こういうことである。

困ったタイ人部下

先日不思議な夢を見て、思い出したあるタイ人部下の話。

なぜかスクムビットを歩いていた私。以前仕事で世話になった会社経営者Hさんが前から歩いてきた。

H「P君、久しぶり。元気そうだね」

P「ええ、おかげさまでなんとかやっています」

H「そうそう、ナタポン(仮名。以下同)さんがP君によろしくって言ってたよ」

Hさんは笑いながらある男の名前を口にした。

ナタポン?もしかしてナタポンって、あの……......。ひとりのタイ人が頭に浮かんだ。

 

私はある大手メーカーの下請けで働いていた。この会社は大手メーカーの工場と周囲にある施設の管理を行っていた。工場はS地区とG地区にあり、私はG地区の担当マネジャー待遇として採用された。G地区は5チームに分かれていた。そのうちの3チームはすでに数年前から業務を行っていた。2チームが新たに立ち上げられ、まずは1チームを担当し、徐々に仕事を覚えて行ってほしいということだった。

この会社の職制は、ワーカー>リーダー>フォアマン>チーフ>アシスタントマネジャー>マネジャーとなっていた。ナタポンはこの新しいチームを担当することで雇われた40代前半、G地区唯一のチーフだった。

入社当初、S地区から立ち上げ要因としてアシスタントマネジャー(30代後半)が来ており、彼と一緒に立ち上げを行ってほしいといわれていた。このチームはチーフ1名、フォアマン、リーダー各2名。日/夜勤の2シフト、ワーカーは1シフト20名前後だった。チーフのナタポンを含め、全員がこの立ち上げのために新たに採用されたものばかりだった。アシスタントマネジャーと一緒に経験の浅いワーカーに指導を行っていたわけだが、ワーカーひとりひとりを指導するわけにもいかず、チーフであるナタポンを通すことが多かった。当初、ナタポンは優秀なチーフだった。指示したことはきちんと行われており、定期的にやってくる日本人幹部の質問にもきちんと答えられ、評価が高かった。だが、しばらくすると化けの皮がはがれてきた。

私は工場にあるオフィスと現場を往復する日が続いた。チーフ以下は呼ばれることがない限り、オフィスに上がってくることはない。アシスタンマネジャー不在のある日、電話でナタポンを呼んだ。フォアマン以上には会社から携帯電話が支給されている。ナタポンは電話に出ない。現場でなにかあったのかと思い、現場へ向かう。ナタポンの姿が見当たらない。

「おい、ナタポンどこにいる?」

ワーカーに尋ねる。

「さあ、どっかで電話でもしているんじゃないですか?」

しばらく現場にいるとナタポンが現れた。

「ああ、Pさん、すいません」

こんなことがなんどか続いた。こっそり現場へ行くと、ナタポンが激しい身振り手振りで電話をしている姿を見ることが増えた。

いったい彼はだれとどんな話をしているのか?アシスタントマネジャーはナタポンと電話で話すことはほとんどないといっていた。

「ナタポンはいったいだれとなにをはなしているんだ?」

親しいワーカーに聞いてみた。

「Pさん、日本人だからわからないと思いますけど、ちょっと気持ち悪いんですよ」

このワーカーによると、なにをいっているのか、よくわからない。方言とかそういうのではなく、電話に向かってひとりごとをいってる。まるでピー(お化け)と話している、そんなふうに見える……。

ある日、ナタポンが大きなミスをした。イージーなミスだったこともあり、少し強い声で彼を叱責した。すると彼は突然

「きさまー日本人だからって偉そうなこと言ってるんじゃねー!口の利き方に気をつけろー!」

と言い返してきた。まさに逆キレである。

ケンカ別れのようになってしばらくすると、電話がかかってきた。タイ人上司に当たる男性からだった。

上「おい、P、ナタポンとなにがあったんだ?!」

P「いやあ、あるミスについて叱責してたら、急にキレたんですよ」

上「ナタポン、アシスタントマネジャーにクレーム入れてきたぞ。あのナタポンが怒るって、Pの言い方が悪かったんじゃないの?」

P「はぁ~以後気を付けます」

まだナタポンの奇行はS地区では知られていなかった。

その後、私は彼を避けるようにした。仕事に関する話は直接フォアマンと話すように心がけてた。そんな日が続いたある日、あるワーカーと話をした。

ワ「Pさん、ナタポンの相手、大変ですねえ」

P「あいつ、以前はああじゃなかったし、仕事もちゃんとやってたよなあ……。もしかしてそれって、やつじゃなく……」

ワ「Pさん、今ごろ気がついたんですか?Pさんが指示したこと、ナタポンはすべてフォアマンに振って、フォアマンがやっていたんですよ。ナタポンはただPさんに報告しているだけ」

P「やっぱりそうだったか……」

ワ「気づくの遅いです(笑)。Pさん、タイの文化知ってるでしょ。ナタポン年上だからみんな遠慮して、なにもいえないんです」

ナタポンは40代前半。ワーカーの大半は20代。アシスタントマネジャーも表向きは上司と部下の関係を維持していたが、ナタポンの悪い点については私に伝えないようにしていた。気が付けなかった私が悪い。

徐々にナタポンの奇行が社内に知られるようになり、プレゼンでも頓珍漢なことを言い出したりすることが続き、彼の性格が知られるようになった。会社幹部はおろか、ワーカーからも信用を失っていった。

その後、組織変更もあり、私とナタポンの関係は終わった。私が退職した直後、彼は会社都合で退職したと、人づてに聞いていた。次の会社で働き始めて数か月が過ぎたころ、ナタポンから電話があった。

ナ「Pさん、ナタポンです。覚えていますか?」

P「ああ」

ナ「もう新しい仕事、見つかっていますか?」

P「ああ、忙しいからまたあとでな」

その夜、親しくしていたスタッフに電話して、ナタポンから電話があったことを伝えた。

「ああ、Pのところにも電話したのか。どうやら仕事見つからないらしく、Pに仕事紹介してもらおうと思って電話したんだと思うよ」

以来、ナタポンから連絡はなかった。

 

P「もしかして、ナタポン、Hさんの会社で働いているのですか?」

H「面接に来たんだよ。履歴書見るとP君が勤めていた会社の名前があったから、P君の名前を出したんだ。上司だって言ってたよ」

P「まさか雇ったんじゃないですよね?」

H「ははは……。P君ならわかるでしょう。雇えないよ、彼は……」

P「でしょう」

H「大変だったね」

P「まったくです(笑)」

Hさんは面接で彼の性格がすぐにわかったようだ。

なぜ今ごろ、ナタポンの名前が夢に出てきたのかわからない。まああまり思い出したくないタイ時代の思い出のひとつだ。

 

ラグビー大学選手権準決勝を見に行く

2018年に続き2019年もラグビー大学選手権準決勝を見に行くことができた。

早稲田VS明治、天理VS帝京と2試合とも好カード。

予定通り家を出ると、バスが満席で乗れないというアクシデントもあったが、運よく乗ることができ、友人との待ち合わせ時間に間に合った。チケットは友人が持っており、さらに自由席だったため、遅れていたらどうなっていたことか……。新年早々、運がいい。

第一試合が伝統校同士の対決ということで、ラグビーファンというより早稲田や明治の卒業生が数多くに見に来ていたようだ。指定席が取れなかったので、ゴール斜め後方の席を確保。スタンドは満席。

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徐々に席が埋まり第一試合開始のときには立ち見が出るほどだった

早稲田VS明治は、実力差があっても例年接戦になるところが伝統の一戦らしい。今年は慶應や帝京を含めた対抗戦グループ4校の実力が伯仲しており、どちらが勝ってもおかしくない接戦が予想された。12月の早明戦で惜しくも敗れた明治は、早稲田を研究したのかディフェンスで早稲田を上回り、リベンジを果たした。早稲田もディフェンスはよかったのに、FWの集まりがいまひとつ対抗戦よりも遅かった気がしたのが残念だ。準々決勝の慶應も対抗戦では早稲田に敗れたが、選手権ではしっかりと敗因を研究し修正してきた。大学ラグビーに限らず、日本人の学習能力が高いことを証明している気がする。

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明治が対抗戦の雪辱を果たした

第二試合は天理VS帝京。10連覇を目指す帝京に関西王者の天理が立ち向かうという構図。関西王者天理は留学生のパワーだけではなく、ひたむきなタックルによるディフェンスがすばらしい。スクラムでも帝京を圧倒。準々決勝の大東文化戦で、天理のスクラムの強さは目を見張るものがあると思っていたが、帝京はペナルティトライを許すなど予想以上に実力差があったようだ。帝京は開始早々SOが脳震盪で退場したのが誤算だったかもしれないが、FWの寄りがいつもより遅かったのはどうしたのだろうか。

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天理快勝!帝京10連覇ならず

第二試合のほうがボールを回す時間が長く、見ているほうは面白かった。関東優位の大学ラグビーのなか、天理は競合が少ない関西でよくあれだけのチームを作ってきたと思う。この試合のほうが好カードと思っていた自分にとって、第一試合が終わると席を立つ観客が多かったのはもったいないとしか思えない。これが日本ラグビーの人気の実態であることも事実だ。

帝京の10連覇はなしえなかったが、打倒帝京で大学ラグビーのレベルは格段に上がったことは、帝京の功績だと思う。ディフェンスのレベルの高さと運動量の多さ(プレイの継続が長くなっている)は、自分が学生だったころと比べて格段に向上している。(ルールが違うので一概に比べるのも抵抗ありますが)

また映像、写真ともカメラマンに女性が多いように思えた。あんな重いカメラ持ってすごいなあ、と素直に尊敬したい。

決勝は明治VS天理。残念ながら所用で観戦に行けないが、好ゲームが期待される。

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行きたかったなあ……

観戦を終え、昨年同様友人と新年会。今年は財布にやさしい新宿の思い出横丁へ。ラグビー談議に花を咲かせ、一年が始まった。

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串盛り

 

不思議なスタート

本年もよろしくおねがいします。

ここ数年、SNSで繋がっていない友人ややり取りのなかった友人数名にポストカードを使って年賀状を出している。

昨年は死を意識する機会が何度かあった。終活というわけではないが、10数年連絡を取っていなかった友人数名に年賀状を出してみた。すると別の数年連絡が途絶えていた友人から年賀状が届いた。似たようなことを考えていたのか、定かではない。

なんとなく不思議な1年の始まりである。

Pumpuikun的2018年十大ニュース

2018年を振り返る意味でちょっと書いてみる。

今年は去年のようなイベントがなかったので、かなり強引だ。

10位:自転車通勤開始

通勤に自転車を使うようになった。筋肉痛に悩まされていたが、しばらくしたら慣れてきた。いい運動だが、雨の日が悩みの種だ。

9位:帝国ホテル利用

もちろん宿泊したわけではない。何度か仕事で出入りさせていただいた。縁のない世界であった。このときの仕事が終わったので、もう二度と入ることもないだろう。

8位:パキスタン初入国

昨年のインドネシアに続き、今年はパキスタンに初めて入国した。毎年1か国くらい新しい国に行ければなあと漠然と考えている。

7位:3か月のホテル暮らし

12か月のうち3か月をビジネスホテルで生活。狭いながらも慣れてくると親しみが湧いてきた。ただ、シャワールームが狭すぎたのきつかった。夏だったらいいのだけど……。

6位:アフガニスタンの大地を見る

カイバル峠、実際にはアフガニスタン国境へ行く途中、アフガニスタンの大地を遠くから見ることができた。海外に行くようになってからずっと行きたいと思っている国。いつか行けることを信じている。

5位:火難の相

2月に住居(私はしばらく不在だった)の向かいの家がボヤを起こした。内装の修理に数か月かかり、現在はまた同じ住人が住んでいる。調理中に目を離したらしい。

4月に身内の家が全焼した。漏電が原因だったと聞く。

明日は我が身。火の元注意である。

4位:救急車を呼ぶ

同居人が突然倒れ、119通報をした。幸い命に別状はなかったが、初めての119通報と身内が目の前で倒れて気が動転した。

3位:謎の体調不良

インドパキスタン中国の旅から帰って1週間後、身体に変調が現れた。約2週間ほとんど寝たきりの生活。病院とコンビニに行く以外、ずっと布団の中。激しい咳が続き、そのうち鼻詰まりがひどくなり、夜になると眠れない。呼吸器科と耳鼻科を行き来し、1か月以上なにもできない状態が続いた。一時的にひどい症状はこれまでになんども経験しているが、ここまで長引いたことは生まれて初めてだった。年齢を感じさせてくれる。

2位:特殊車両運転

ナンバープレートがちょっと変わった車両を運転することに。日本で運転するのは数年ぶり。必要以上に緊張して失敗してしまった(事故を起こしたわけではない)。2度とこの車両を運転することはあるまい。

1位:クンジュラブ峠往復

長年の夢であったクンジュラブ峠を越えることができた。しかも往復することに。この道中の景色はザンスカール、ヌブラ渓谷に匹敵する絶景だった。とはいえ、中国の出入国はもうこりごりだ。(残念ながら中国側の方が絶景なんだよなあ……)

2018年は3月までは順調。3月下旬ころから徐々に歯車が狂い始め、現在に至っている。これも神が与えた試練なのか、自分の目論見が甘かっただけなのか。人生なるようにしかならないのであるが、もう少し抵抗してみようと思う。

よいお年をお迎えください。

インド横断とカラコルムハイウェイ~エピローグ

無事にバンコクへ到着。

荷物を預かっていただいた友人と会い、久しぶりの日本食。ずっと食べたかったとんかつ。なぜか食べきれなかった。

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ずっと食べたかったとんかつ

友人と旅の話、帰国後の話などをしたあとホテルに戻った。これで旅も終わりだ。

 

今回の旅、クンジュラブ越えをひとりでなく、旅慣れた方とできるということで話に乗った。しかし、ガヤーからカシュガルまで、いや、しょっぱなのガヤーからアムリッツアルへの移動で心身とも折れてしまった。以後、同行者のお荷物になってしまったという後ろめたい気持ちを持ち、カシュガルで同行者と別れることとなった。そのことがずっと頭に残ったまま旅を続けていた。

この旅は、ある目的をもって旅行していたのだけど、(達成ではなく)実行できず、それも心残りになって、重い気持ちのまま旅を続けてしまった。結果、カイバル峠へ行く(見る)、インドを陸路横断するということを目標に切り替え、心を保たせて旅を続けたというのが本当のところだ。無理に目的のようなものを設定しても、モチベーションを高めることもできず、若いときのようなあてもなくふらつくという旅よりも、なにかしら目的をもって旅をする年齢になってきたのかもしれない。同行者は明確な目的があって、それを意識して行動していた。

帰国後、旅行した土地のことが気になるようになった。

ウイグルは最初から行くのが楽しみである以上に憂鬱な気分だった。実際、入国時にスマホに変なソフトを入れられるという情報もあり、スマホを友人に預けようかどうか、タイに来るまで真剣に悩んでいた。旅慣れている同行者は普段と変わらない装備で行くようだったので、自分も持って行った。カシュガルでは、自分の眼で現実を見て感じて、絶望感を持つようになった。カシュガルのあの雰囲気は重く、積極的にもう一度行きたいとは思わない。

パキスタンに関するブログやサイトを多く見るようになり、行き損ねたところが数多くあったこと、勘違いしていたことに気がついた。ウイグルと違ってもう一度行ってみたい。特に北部とペシャワール。生きている間にアフガニスタンが平和になってカイバル峠から入国し、自由に旅行できるようになることを祈るばかり。

インドは移動ばかりだった。通過した土地はどこも普通の国になったという感想だった。25年前にインドを旅行したとき、なにをしてもインド人とケンカのようなものだった。交渉時と後では金額が違う、道を聞けばうそを教える……。今回はそんなこともなく、パキスタンから戻ってきてホッとするくらいだった。

ひとり旅の限界を感じさせてくれたのもこの旅だった。カシュガルで同行者と別れ、ひとりになると、動くのが億劫になっていた。特に食事のときは、会話がしたくてしょうがなかったし、食べるものも限られていた。

今回、SIMカードをタイで購入し、インドへ入国。タイ以外でこれほどネットに頼った旅は初めてだった。予想以上に活躍してくれると同時に、ないと不便に感じるようになっていた。同行者はスマホを上手に使い、旅に生かしていた。自分ももう少し使いこなせるようになれば、旅がしやすくなりそうだ。

2019年は海外旅行に行く機会もなさそうだ。いつかまたこの地を旅し、まだ見ぬ土地を目にすることを夢見て。